昨日の続きだよ

昨日はドコモショップで時間取られてあたふたとパソの講習に行った、
ネットバンキング分かったような分からんような状況だったよ(~_~)
まあいつものことでICレコーダーに録音したから今度からはそれを聞きながらやることはできるでしょう(^o^)
相手には気長に待って頂くことにしますか(笑)
今度の一月十七日の木曜はいつになるかな?(笑)
また後でカレンダー見てみよっと(^^)
それにしても震災の追悼式に行けなかったのは非常に残念に思った私、
ほんとは震災の有った午前五時四十六分に行ければ良かったんでしょうけどヘルパーさんもそんなに早い時間には頼めないし、
第一寒すぎて来てもらえないし私も行かないか(笑)
なんて勝手な人間なんだろう(~_~)
丸十八年が立ったけどあの時のことは鮮明に覚えてる、
あの頃私は今は居ない同僚の叔母ちゃんと二人で二段ベットに寝てた、
勿論叔母ちゃんが下で私が上の段、
激しくベットが揺れたんで下の叔母ちゃんが病気の発作起こしたと思ったの、
でも叔母ちゃんは至って冷静に「地震や!」と言ってベットから出てきたから、
取り敢えず揺れが収まるまでは部屋を出ないでおこうと話し合ってラジオつけたけど全く音が出ず停電だと知らされた、
暫くして今は嫁いでいる上司の娘さんが来てくれて私たちは店で避難生活を始めた、
従業員は全員けがもなくほとんどが店で生活した、
電気も水もガスも無い中人の温もりだけが支えになっていた、
2 3日は食べ物も無くおろおろしてたけど先輩が役所に電話してくれて避難所に行って食料とお茶とか毎日貰いに行っていた、
上司の話だとお母さんと二人避難してる従業員の様子を見に行ったとき、
町内の人からこれ以上障害者を連れて来ないでくれと言われたらしい、
上司にも意地が有るから絶対に残ってる従業員を護ろうと思ったと言う、
誰も好き好んで避難生活をしてる訳じゃないのに非常事態の中でもそんな心ないことを言う人も居るんですよ、
あの頃はお客様が来ても震災の話は止めるように意識してた、
家族や友人知人を亡くされた方も居られるからと言う上司の配慮でした、
徐々に食料が流通するようになった頃市の職員が夜中に配達してくれた、
上司の嫁は余ってるし夜中にまで持ってこなくていいのにとぼやいてましたけどさすがに上司は叱りつけてました、
そんなこんなで時は流れて今に至ってますが、
東日本の方々や東北の方々も記憶が薄れることなど無いと私は思います、
何にもできないけど遠くから少しでも早い復興をお祈りしています。